花の星の創作BLOG

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どう形容していいかつかめない邪心(邪神)



たぶん、捉えられる方のなかには
ふたつにわかれていることを
すでに、感覚で把握されていて
ただ、それを
どう形容してよいか
わからないかたも、いらっしゃるのかな、と
思います

邪神は、一概にいえるものではないし
また、おもてむきの姿、言葉も含め
あらわれる姿を
さまざまにかえることができます

しかし、その実態は
ひとつのところから
決して動くことがありません

それは「邪心、悪心」のところです

私が見てきたところ
かれらは
礼儀正しく優しさをふりまかれやすいです

こころの実態は
かわらないままに、
優しさのよそおい
丁寧な礼儀正しさをよそおわれる

そのよそおいは

芯に優しい方
思いやりにあるかたより

派手で、見栄えが良いです……

つまり、
形容しがたい悪心、というのは
すでにこの世にあらわれています……

態度、行為からは
かなり、掴み難い

見た目や
会話で
わかりやすい悪ではありません

……

善悪の区別がつくなら
みえないものの区別もつきます

まず、そこが
つけられないなら
みえないものの手玉に陥ります

みえないもの、は
善であれ、悪であれ
たいはんは人智をこえています

だからこそ、
渡り歩くときは
神の後ろ盾と、己の芯を必要とします

……

目の前に、あらわれるみえないものは
その実態の
ごく一部分にすぎません

人間であれば
誰にとっても、です

(かれらは、たいていは
巨大なのです)

そのすべての姿(心理)……

全容と根源をみぬくことは
遠いひとほどできるのかな、と
おもいます

景色の全容をみるように

のまれきって
中にはいりこんでしまっている人は
はなれてみないと
(ほんとうの、そのものの、全ての姿は)
わからない、見えないものかもしれませんね

……

さにわ、とは
善悪の区別を
心理から頭まで通して
感覚をひらき
無心になって
対象を把握してみること、に
すぎません

このような
混濁の世の中には
さにわはとても大切なことです

問われているのは
「その人」であります

その人が、招いたものであり
その人だから
かかわりがおきているものだからです

……

たとえば

イエス・キリストをなのる
みえないものは
数多くあり

イエス・キリストもまた
散歩を好かれているので
ふれるひとは
よく触れていらっしゃる

真贋混在

ここで問われているのは
「どのみえないものが
真のキリストか(救いか)」ではなくて
「あなた」が
「どのもの」を
「真のキリスト(救いの主)とするか」なのです