花の星の創作BLOG

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霊性開花のはざまのなかで(今日は書きすぎ)



親愛なる者へ、伝えられ続けた
スピリチュアルは
親愛であり、
霊性の開花

それは、やがて
みえること、感じることをともない
それは、やがて
神とともに暮らすことにたどりつく

邪悪な勢力は
つねに、人間の霊性開花と
神とともに暮らすことを

邪魔してきた、ふさいできた、
おしこめようとしてきた、

霊性が高くなれば
霊性開花する
霊性が高まれば
みえるようになり
うけとる……はなすようになる

あたりまえのことを
「それは蛇道」とし

それらは、人間をふさぐため
能力と霊性を分け隔ててくる

……

霊性
たかまるなら
たかまるなかで

己の胸内に気がつく

愛はあるか、親愛はあるか
誰を愛せて、誰を愛せずにいるのか……

己の愛のいびつさに気がつく

己の醜さにこそ
目がいくようになる
人の姿におぼえる胸内の
いびつさ

人間は情けない

無償の、すべてを愛する愛を
人間は、もちにくい
おおいなるものが
そうつくられた

それは「愛せる」と
「愛せない」の間で
葛藤するため、だったのかもしれない

己の愛と、愛なき己のはざまで

悩み進むためなのかもしれない

優しくなれ、など
彼らは言っていない
ひとにいえ、とも
言っていない

ましてや、
他人が悪いだの
かれらのなかで
そんなことをいうものは
なにひとり、いない

己をしれ、と、言っている

……

他人の人格否定をしつづける
己の
醜悪さは
愛せないから、わいてくる

……

いびつであることも
狂っていることも
たいして、関係ない

どんな精神か
どんな人格か
関係ない

誰がどんな人間で
何をしているか、じゃ、ない

自分の心理に愛があるか、に、すぎない

他人、ことなるものに
親しみをおぼえ
理解し、愛せなくても
思いやれるか、どうか

失っているこころ
他人に、罪を覚え、憎しみをおぼえている
己の心理に
気がつけるかどうか

……

なんじの隣人を愛せよ、と
彼は伝えられた

……

意外な話を飲み込めるか
私ではわからないが

天界からのスピリチュアルは
自立をすること、であり
また、霊性を高めること
たかめて、やがて
開花すること、になる

霊性を高める=開花はしない、という知識は
かなり歪なものなので
概念があったら、捨て去ったほうがいい

花に水をあたえれば咲くように
霊性にちからをあたえれば
開花はおとずれる

その時は、人に聞くな

邪悪なものたちの
人間の霊性開花への邪魔は
「人に聞く弱さ」にも
さしこんでくる

答えなんかどこにもない

霊性開花中は
かなり不安になるけれど
自分の霊性
自分で、担うしかない

……

神々は、視える、わかる、うけとり
つたえられる、霊性開花を
まちのぞみ、
そうした、ちからを育むちからを与えてきた

神々からのスピリチュアルは

もとの、人間のちからがもどること

個人個人のみちのり
誰とも異なる日々のなか
個性的な、その人間性から、

霊性開花にたっし
人間たちが、また、ふたたび
神々と暮らすこと、ほかならない

きっと、そうしたことを否定する勢力は
ずっと、そこに、あっただろう

スピリチュアルは、
精神改造のことじゃない
精神のことじゃない

人間の精神が
どうなればいいなんて
どうしてそんな支配を
神々がもたらす?

どんな精神の人間であっても愛した、
釈迦や、イエス・キリスト
かれら、神々が
なぜ人間の精神に
「画一的な理想」を強いる?

スピリチュアルは、
魂のために流し込まれ
魂のことに、与えられてきた

霊性開花から
己に気がつくことも
道にはあるけれど

他人から、精神について
いわれること
他人の、精神について
宣うこと、は
神々のスピリチュアルではない

……

邪なものも
悪いものも
良いものも

自分のすがたも
精神のことも

霊性のことも

自分で気が付け
自分で担え
自分で感じ取れ

自分の頭でかんがえて
自分の魂でうけとり、あたえ
自分の心で、話してみなよ



「好きな人がいる以外に
大切なことって
ないのかもしれませんね」

善哉善哉
大切なことってどんなこと

他人も、自分も

好きな人がいるといいね
好きなことがあるといいね
この世界にあるといいね

善哉善哉 魔は打ち砕かれ
清め過ぎ去る

苦悩と痛みは糧となり
道はひらかれる

愛されていること
愛していたこと
己の愛に出逢いはじめる

おやすみなさい、良い夢を