花の星の創作BLOG

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邪悪は怒りを受け付けない



鬼瓦、あるいは
魔除けのものに
よく鬼面、憤怒のそうが
表現されているのですが
私は、これが
ずっと不思議だったのです
(なんで憤怒の相ぐらいで、
魔除けになるのだろう、と)

見えない界隈に散策を重ねるうち
「邪悪」は
「怒り」を
完全に、まったくもって
受け付けられないらしいことが
よく分かりまして
今回、このことを
シェアしたくて
記事にしてみています

……

(※私は闇を二種類にみています
ひとつが、邪悪、
ひとつが、自然なもの、です)

……

私は、まっとうに怒る方と
わりとよく関わってきたので
邪な苛立ち、不埒なムカつきと
まっとうな怒りには
ことなりがあり

まっとうな怒りは
むしろ必要なもので
温かいものだと、いうことを
さまざまに
経験してきたのですが

邪悪はこの
まっとうさが
エゴイズムやナルシズムに
不埒さが
優しさや思いやりに
とれるらしく

たとえば
不動明王の憤怒さえ
邪悪にしてみると
「差別」であり
「エゴの押しつけ」に
見えるようです

それで、
よく、邪悪は
神々や精霊に
怒られているのですが

邪悪からすると
そうした怒りをもつ神々は
神々でなく
悪魔になり
神々に対し、
そう、罵りをおこなっています

……

私は人間ですが
他人様のことは
たいはんもわかりません

それでも
温かさのやどる
まっとうな怒りを
浴びずに来れる人間というのは
いるものでしょうか、と
疑問を思います

つまり、ひとであり
人と関わりがあったなら
真摯な怒り、まっとうな怒りを
いくどか経験しているのではないかと

だからこそ
不埒や邪悪といった
エゴイズムと
そうした真摯なものを
人間らしさ、に
たちもどれば
誰でも、
分けて見て取れるんではないかと
思うのです

(エゴとまっとうな怒りを
混濁される、ということは
欲望と真っ当さが
見分けられなくなってる

それは、
そのときは、どこか、足場が
混乱しているのではないか、
やわいでいるだけなのではないかと)

……

鬼瓦や、まよけの「憤怒」が
なぜ、魔除けになるのか、は
ようやく、みてとれまして

邪悪は「まっとうな怒り」を
ほんとうに、ねっから、
こんげんから、存在している根っから
「受け入れることができない」らしく
そのため
「まっとうな怒り」のまえに
削ごうとしたり、
避けようとしたり
するところがあるのです

(※エゴや不埒な苛立ちは
逆に寄せます)

邪悪なエネルギー体は
邪悪であることが
存在していること、と
イコールのようです
ですから
邪悪(※不埒、エゴ)を怒られると
エネルギーが
消えていってしまうのでしょう

それで、
憤怒の相(現し)だけであっても
邪悪にたいしては
効果があるようです

……

逆に、静謐な精霊や神々は
人間からのものであれ
生命からのものであれ
怒りに対し、大変真摯です

そうした神々と
リンクがある方も
真摯な怒りには
真摯な態度をもたれる

(それは
怒り、に、
とらわれてないためでしょう
うわべの感情ではなく
根にある真摯さをみている
真摯さを
報おうとされる)

(真摯に真摯を
かえそうとされる
誠実さこそが
神々から触れられる心根なのかも
知れません)

彼等は、まっとうな怒りを
きちんと、心にもたれ
伝えようと表現にとりくみますし
否認されることもありません

真っ当であるからこそ
ひとのも、己のも、怒りを
受け入れることが出来るようです

……

だそくですが
どうも、邪悪は、逆に
リンクにある方からは
真剣な怒りや、真っ当さを
削ぎ落としにかかるようです

(※真っ当さは
イコール常識ではありません)

もしも真っ当さ、人間性
そがれたり
真っ当な心に対し
その思いをもったものの
人格の責任にされるような
口車をあびせられて
混濁におとされるようなことが
ありましたら

それに惑わされず、
ひとりひとりのもつ、
真っ当さ、人間性
いちど、立ち戻り
現実をみなおされると
良いかもしれません