花の星の創作BLOG

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滝抜ける



マイナスのエナジーにあてられているときは
どうも、悪語というか
「人にイライラしたような話」を
しやすくなるらしい
そのとき胸うちを探ってみれば
別にイライラしてもいないらしい

仏教では
「人の悪口をいわない」をはじめ
何か条か、誓約がある

わたしはそれはとても良いことと思う

本音で生きる本音賞賛のようなものがあるが
わたしは、
本音は、じつはたてまえと
それほど変わりないんではないかと思う

むしろ、人を貶めたりすることや
悪口や陰口のほうが
本音本心からは
ギャップがあるんではないか

……

仏教の十箇条?のような誓約は
私が以前に感じ覚えた
不和のエネルギーをよけ
本心本質にたちかえる道筋におもえる

人間の、本心本質は
獣性とはほどとおい

やはり争いはいやだとか
むごいことは、ひとにも
自分にもない方がいいとか

きちんと人間らしい

あの不和のエネルギーからの
まといつきの
さけかた、はらいかたのようなものが
仏教の十箇条にはあるように思える

……

私は、知覚するので
不和のエネルギーのあてられのときは
謹慎みたいになる

どうも、あのエネルギーは
ことばにすれば
悪口に
行為にすれば
攻撃になる

自我も自己も
不和のエネルギーとは
別にある

……

言いたいことを我慢するとか
感情のままに行為しない、とか
知覚があると
そんな理屈よりも
感情が心と異なる

浮き上がりの感情

感情が本心と異なるときに
あおられてあてられて
動くことは、もう
己を捨てて
そうした感情の奴隷のようで

己がしているようで
感情がしたいことを
したいがままに
うごかされているだけの

釈迦のゆっていた「こころの奴隷」って
つまり、あてられや煽られに
奴隷になる、
己の本心でない浮き上がりに
流されて、されるがままになる
そういうふうなことかと思う

……

仏教だったと思うが

知っていたり、わかっていたりするものは
知らないままにしてしまうよりも
裁かれる(業が深くなる)

……

不動明王の憤怒は
前も書いたが
父親の、子を思う憤怒だ

不和の憤怒ではない

なんというか
みえるのだし
じぶんのも。ひとのも
わかるのだから
言い訳ができない

習いたい