花の星の創作BLOG

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「盲目」であることへの自覚と、過ちは常にあるのだから怯まないこと

盲目の人群れが象をなでて、どういうものかを論じてる、有名な「悟りというものの人の風景」をあらわした言葉ですが、神様のことや、見えない世界のこと、スピリチュアルや霊能ごとについても、これがあてはまります

ひとのみえる範囲は「人の目」の範囲でしかありません、それは見えない世界でもです



神様は巨大です、創造主たればなおも巨大で、人間がふれることのできる範囲は、どこまでいっても「かけら」にすぎない

正しくない、というより、誰もが、どこまでも「部分的」なままで、今なお霧の中にある世界にたいし、何とか知恵をよりあつめ、生きている、なんとかしていっている、それが、見えないところにかかわる、スピリチュアルや霊能者の世界なのだと思います

すべてを見通せる人などひとりとしていないのです



ラグナロクにおいては、毒霧もおおいですから、(呪詛と祟りがいきかってる)、神々のなかには、「あちらがわの解釈を持ち出すもの」をすべて「毒者」と見なす方もいらっしゃいます

さまざまな方々が、なんどか彼らに怒られているのですが、人間の身である私から、伝えられるなら「正しきは正しきに座る」ものですから、「なにがどう」というより「あなたが善意であったなら」神々の祟りに右往左往する必要はありません

人間はつねに無知無明です、これはもうしょうがない、だから間違えもするし、己の目には、範囲があるのに、己の目(のみが)正しいと思い込む(見えたもの、聞こえたものに頼ろうとする)

神々はこれからどのような神々であっても、その存在を濃くしていかれますから(おおいなる、主たる神様が、ここからさきは、そうした世界になることを望まれたのです)神々に怒られていたり、自己の目が間違っていたことを指摘されたり、もっとかなしい話ですが……ひとりひとりが、己の正しさを信じ、おこなったり、のたまったりしてきたことの、なかには「悪意であったこと、悪意にのまれていたこと」があったこと、それをあきらかにされたりするかもしれません



裁きの神は盲目であり、耳の聞こえない神のおひとりです、見えたもの、聞こえたことに頼らないからこそ、完全な公平をもたらされます

「あなたが善意であったなら、過ちもまた善意によりつぐなえる」
あなたが行為をする前に、座る場所があなたの真心であったなら、それは、神々は、許されます

ですから、難しいことかもしれませんが、なにがあっても、なににも惑わされず、己の真心にすわられて、そこから立たれ、そこから動かれてください

ひとは過ちをふみしめながら、それでも生きていき、よりよく生きようとするものです、神々が怒りをもつことを貴方がしていたとして、善意により行っていたなら、それを伝え、また、やりなおされてください



一言伝えられるなら、あなたでいる他ないのです、他人はおろか、神々にさえ、あなたを貴方でないなにかにかえて、気に入られようと生きることは、できない(しても、無理になる)

ですから、あなたが盲目の群のひとりであること、ほかのひともまたそうであることを、できることなら理解して、そのうえで「あなたの真心から生きてください」

過ちをおそれず、怒られることを恐れにせず

ちなみに、神々が怒るということは、それは祝福にすぎません、このことはまた後ほど記述します