▲スピリチュアル絵本「おに」
むかしは
隠れたもの
つまり
みえないものを
そうじて「モノ」と
呼んでいたそうです
やがてそれは
「隠人」とかいて
「おに」と呼ぶようになり
時がたつと
「おに」は
「神」と「おに」に
わかれていきました
やがて「おに」がふたつにわかれ
「隠穢」と「隠人」に
わかれていきました
これは、なんだか
みえないところが
時がたつにつれ
「理解されていった」ながれ
そのままのようです
:
ひとにとって「こわいもの」は
「隠れた穢れ」と
「隠れた神(鬼)」と
ふたつあります
このふたつは
明確な差異がありますが
みえないものでありますから
どちらも「こわい」で
くくられてしまいます
「隠れた穢れ」は
「負荷」……こころのストレスに似ていて
いやなもの、くさいもの、悪いものを想起させます
(見えなくても、
それにふれたとき
なんとなく、
いやなイメージ、汚いかんじ
重くおもう、嫌悪を感じる、臭みを感じる
などの想起は
誰にでも起こるようです)
:
「隠れた神(鬼)」は
「とてつもなく冷たい」か、
「とてつもなく熱い」です
重く、苦しく、痛くかんじたり、
暗いときもあります
でも、汚さがありません
厳しさと似ていますね
ただ、ひたすら、厳しい
そうして「忌避」と「畏怖」が
想起されます
:
「神は怒らない」と
いう方もいらっしゃいますが
それは「如来尊」のほうだけを
「神」ととらえている様子です
ほんらい「神」は、みな
四つの面相をお持ちです
「怒り」は、神の「親愛」です……
「ほんとうに、ひとを、おこったことがあるひと」だけが
その「怒るものが背負う担い」を
知っているのかもしれません
それを担い、
よくないこと
わるいことへの
道の歩みを
削ぎ落す
これが、怒りです
:
……「神の顔」を
どのようにとらえているかは
「心の様子」の
とらえ方と似ています