花の星の創作BLOG

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きらいなもの



内心の神聖にふれれるなら
外在の神聖にもふれれるし

また、邪悪は
状況と状態により
わきたつもので
「魂にあるもの」ではない

だから
きえない
けせないものだ、と
いうことにも
ふれるよ

……

(あるんだったら
けせるんだけど
外と内の関係性で
「沸く」ものだから
最初から、
命の魂や心は
それを持って無いの
だから、生涯
沸くことを見つめ、
気をつけることはできても
消し切ることは
ありえないの)

……

「私は善人」は
わかりやすい
邪悪だよ

……

人間は
生涯、邪悪におちきることも
神聖になりきることも
ないよ

……

生きている人の
精神性の追求が
かならず、
矛盾をはらむのは

生きているかぎり、
人は、生涯、神聖善には
達し得ないからだよ

……

(だからこそ、
精神性の美学を
他人に宣うなら
その時点で
ろくでもないんだけどね)

(その知識(観念)で
他人の姿を
みている
時点で
ろくでもないのよ
精神性の美学から
はなれてんの)←(根源矛盾)

(出来てから
自分が、出来てから
身に付いてから
言葉をつかうようにすると
違う風が
でてくるけれどね)

……

ひとり

自分の内だけが
神聖かというと
そうじゃない

「内にも外にも」
神聖はあり、

神様は、
みえないだけで
現実にいるよ

たましいの声と、自己保身の言葉



愛する

まず、
他人のことを
下に分けるなら
自分を、上におけることを
欲している

思いやりは
自分は、善良なんだ、
っていう
思い込みに生きている時は
わかない

思い込めることを
欲しっている
心の裏があれば
ともらない、わいていない

……

私は善良で
ひとを、
愛しているんだって
思い込みに
生きていると

心根にある生命の愛に
触れることが
できなくなる

それはたんなる
苦痛による、
善人感への逃避にすぎない

……

たましい、

「自分に善人感がある」か
どうか、ではなくて

魂に
触れたかどうかにすぎない

……

力があるとき
「善人感への逃避」を
もとめれば
轍を踏む

魂で生きたいのなら

自分のも、ひとのも
現実をみて

そのこころの
たましいの声の
言葉をしたほうが
良い

……

自分への善人感を
たもち直す言葉とか
自己保身の言葉とか
そうしたものは
削ぎ落とす

……

言葉は、
裏側になにがあるか

何かを、その言葉で
つくりたがっているのか
欲しているのか

それとも、声か

言葉を、見極める

言の葉にかくれた
こころが
重要なものを
やどしている