花の星の創作BLOG

花の星の更新作品のお知らせブログです、絵、漫画、写真、フリーゲームなども公開していきます

だいぼしん

わたしはこうきいている
だいぼしん

子を生んだ時
あまりのいたみに
死地にたおれた
大母神のからだから
穀物が生え
果物が生えた

http://ahito.com/novel/goddes/2018/20180702/01.jpg

右乳から流れ出したミルクから
とあるものたちが生まれ
左乳から流れ出したミルクから
とあるものたちがうまれた

たおれたといっても
死ぬことのない大母神は
死ぬことのないまま
死のごとく苦しみにおちただけだった
そのため
様々な厄災にみまわれた

右乳からおりたものは
ほんとうをはなし
真実を歩み
善性をになった

左乳からおりたものは
げんじつを愛し
嘘偽りを愛し
欺瞞をになった

それはらせんをかいて
くるくるまわって
なんども役割を変えた

嘘は本音からうまれ
嘘から本心がうまれて
くるくるまわった

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わすれさられた時の
ほんとうのところは
みんな、母なる大母神を
こよなく愛し
護るために命をつむいでいた

ここは、その時の死の国
死と生の境の国
死なない大母神が苦しみもがき
死のごとく地におちた
ここがその地であり
むこうが、黄泉であり
あちらが、天である

……

永劫の死地で
病と穢れに苦しんできた大母神は
刻々とながれる時の癒しを借り

力を取り戻し

己をとりもどしはじめた

それは善でもなく偽りでもない
愛だった

……

大母神が癒えきる時


http://ahito.com/novel/goddes/2018/20180702/03.jpg

病と穢れからうまれたものは消え果て
天と地の触れあいが
再びはじまるという

さきがけて降りてきている
裁くもの、癒すもの、導くもの

裁くものは、清らかなる焔にすぎず
癒すものは、深淵なる水にすぎず
導くものは、美しい風だという

かれらは、病と穢れと、
それからうまれたものを
大母神のからだから、祓いおとし
癒し、清め続けている

ネガティブな流れに自我をあわせないこと



もともと、人間は
ポジティブなものが本心神髄にあり
愛していたり、無垢だったり
無邪気だったり、好んでいたり
可愛いこと、よろこばしいことを
深く感謝したりする命です

それは神のわけみたまであり
ひとりひとりが、神の子であるためです

ひとりひとりのもつ本心は
神髄(本心の核をなすもの)があり
そこはまばゆい光に満ちてあります



自我と己はべつものです……

自我は外側とワタクシゴトの間に生じる
錯覚をふくむ、実態のないものです

本心が善良性をたもち、
神髄では神とともにあることと、
ここに実態(みのり)があります

間に生じる蜃気楼のごとき自我とは
まったく、ことなることが多々あります



本心と神髄を無視し
自我ばかりを優先させると
苦しみ(あるいは人間関係の問題)が
うまれやすくなり

また心身にゆがみも生じていきます……

ネガティブな存在のなかには
この自我のふりをして
堕落、あるいは、ムカつきのエネルギーをもって
言葉ではないモノで
ひとに囁きかけるものもいます

誰かにいらいらしたり
被害妄想にとらわれたり
人が悪いようにおもえるときは

もしかしたら
この堕落したエネルギーの囁きを
自我(自分のもの)と思い込んで
とらわれてしまっているのかもしれません



ほんらいの神髄にたちもどり
ほんらいの本音、本心でいきることは
モトノキ(元気)を活性させ
常に安心と安定につつまれる

目の前に、人間関係の問題が
あらわれるのだとしたら
あなたの、こころのこたえをもとめる
問いかけのようなものです
(人生上の禅問答ですね)

本心からこたえられたら
あなたは、貴方に戻ることができ
貴方の安心にいだかれるでしょう

とくに、昨今は不安や怯え、心配を
とりこみにつかうものが多いです

奇妙なはなしですが
不安や怯える心配はなにもなく
すべては采配のうえ、
光の世界に向かっています

人間(他人)や国
世界や、あるいは神々を
ネガティブにみせるエネルギーの囁きに
ご注意のうえ、のみこまれないようにされてください

それは貴方の不安、怯え、心配などの
ネガティブな思慮をこのんで
とりついてきています

「なにかが悪いように感じる」
「誰かに問題があるようにおもう」
「悪い流れに、人のせいですすんでいる」
「私は善良(よくやっている)なのに
あのひと(たち)は
悪人(堕落している、怠けている、
よくしていない)」

これが錯覚です

本心から、神さまを受け取りながら
世界をみつめなおしたら
「改善心は己にあり」
「すべてが光に向かっている」ことが
感じるかたなら、受け取れるかと思います

可哀想と、慈悲のちがい(前の記事の補足事項)



可哀想というエネルギーと
慈悲のエネルギーは
まるでべつのものです

慈悲のエネルギーは
慈しみ(愛)が根元にあり
痛みや苦しみに悲しみをおぼえるもので
相手の自立や自主を邪魔しません

可哀想というのは
自分への憐れみというのを根元に
その反射で相手を哀れむため
相手と自分の切り離しがなく
いつしか依存、なめあう関係をもとめがちになる



人や命への心愛が
苦しみに
悲しむのが、ひとのもつ
ほんらいの悲しみのようです

自分が可哀想だから
可哀想さが反射するのは
穢れからたちのぼる
錯覚のようです



この慈悲もまた
穢れ錯覚からの、祓い清めの道筋があり

「自分が可哀想」というエネルギーから
いちど「自分も、ひとも、愛しい」に心感を上げ
その後「愛しい、苦しみは悲しい、
苦しみを改善していこう」に
あげなおすことができます……

終わっていく、消滅していくエネルギーに
のりつづけると
錯乱や混乱がおおくなりますから

なにか乱れをもつエネルギーがあるなら
よろしければ、そこからは
道筋をみつめなおし
善心のほうへ、心感をあげられてみてください

とたんに、乱れが落ち着くかと思います