花の星の創作BLOG

花の星の更新作品のお知らせブログです、絵、漫画、写真、フリーゲームなども公開していきます

フルパワーは「愛」


「愛」がわきたつとき
そこにヒーリングのパワーは
自然にあらわれる

「怒り」が
「愛」にもとづくなら
そこに祓いがあらわれる

恨み憎しみすら
愛にもとづくなら
癒しに変わる

「愛」が、命の、自然の極みにある力

神が降りるのも「愛」におりる

見えないとか
わからないとかは
関係ない

こうしたことに霊能力は関係ない



「地の塩」たる「ひと」は
塩のような愛を持つ

人に厳しい人とかではない

甘えがない

だから塩だ

己の敵は己に過ぎない
真心や、愛がない時
力は劣る



理屈は愛にかなわない
歴史も、経験も
愛せるなら強い
愛せないなら弱い
逃げようもなく
単純な話だ

愛でないのに
愛のふりをするなら
もっとも、苦難に出会う

愛は
それほど
強烈なものだからだ



愛である人は
友が多い

知り合いではない

友が多い

みえないものにも
みえるものにも
人間にも
動物にも

命に敬愛を
自然に行うからだ

(By 空海さんより)

貴方を生きることと、「スピの師匠」などこの世にいないこと



▲スピリチュアル絵本「あなたを好きな人、あなたのいきる」




人の傍には

かならずその人を愛しているものがいて

ずっと、見守られています



たまに「人に好かれるには」で

まようこと

「好かれるために」行うことは

すべて、そうした「迷い」なのですが……



意味がないです



「貴方を好きな人」は

貴方を好きなので

「貴方が、

自分をもって生きるとき」あらわれます

かならず



人の尻馬にのるほうが楽だし

あるいは

「これでいいのか」と

まわりに「これでいいのか」と

たしかめるように

確かめたいからこそ

人に対し、尻馬を差し出すこと

人生の、師匠ごっこ

することもある



でも意味がない



所詮「他人の生き方」は

貴方の生き方にはなりません



からだは使うためにもって授かりました



自分で、自分を使って

生きてみるしかない



あなたが生きはじめた時

「貴方を好きな人」が

ふと、あらわれるでしょう







「スピリチュアル」のなかには

「スピの師匠」を

そういわなくても

ずっと、くりかえし

している方もいるけれど

そこにあるのは

「怯み」です



「スピ」を

ほんとうに味わう時

自立するしかないので

「誰かの師匠にはなれないし

スピや、こうしたことに

師というものはいない」ことに

気が付きます



たとえ

キリストであれ

釈迦であれ



……釈迦は

「あれは私の友達だ」と

いわれていました



キリストも近いことを伝えられます



その言葉がどれほどの意味をもっているのか

「師匠と生徒」の場所から



「一人で歩け」を受け入れた時

わかるかもしれません







キリストが言っていましたよ



「道は教えられないんですよ」って



道は人生です

自分が、自分で

歩いているうちに

わかる



それは、神様でも

如来でも

高次の存在でも

えらいひとでも

えらいことをした人でも

「あなたの道などわからない」



あなたが、生きるんですから







教えられることなど何もありません

誰かを変えることも、「そのひとではない他人」にはできません



強いる人は「怯み」をもっているだけにすぎない



もしも、ひとに

「スピを伝えたい」のなら

あなたの魂の生きざまを

そこにおいて

見せられるだけでしょう

世界への影響……

大切なこととして
「あなたがもたらす、世界への影響」と
いうものがあります

範囲が広い方もいらっしゃいますし
ふかいかたも、せまいかたも、
浅い方も、千差万別ですが

だれもが「そのこと」を
背負っています

それが、人間です



池に落ちる一つの木の葉が
波紋をえがくように

ひとりのひとの行いは
あんがい広い範囲で
波の紋様となり
流れあらわれていきます

見えないところでは
はげしいラグナロク
展開されていますから

この影響が顕れることをもって
世の中を悪くしようと
動き回っている方々と
世の中への尽力(つとめ)を
繰り返している方々とで
真っ二つにわかれてあります

……

あなた、が
どちらにいるかで
まわりの方々も
どちらにいるか、が
明瞭にわかれています

……堕落者の最終的な願望は
周りを巻き込んだ破滅のようですから
お気をつけていらしてください

それは「堕落」か
「尽力」かの違いのようです

……

見えない方々が
仕事を頼む方は限られています

自我という
自分でいっぱいになっている方は
まず、それが
その人への問いかけとなっていますから
他者がものを頼むことができない
(自分のことで余裕がないからです)

欲していること
自我のうづきから
おもいこんでいることが
ついえたとき
ようやく、神々や見えない精霊が
ふれはじめます、

お皿のようなものです
すでに、なにがしかで
盛られているものがあったら
盛りつけることはできません

いっさいの私事が
空になったとき
あらためて、触れられることがあります



たくさんの現実の
あらゆることは
そのひとにより
神々は、そのひとのわかりやすいかたちを
現象として、あらわされる

どのようなことも
貴方事と
ひとさまのことでは
模様が異なることがあります

しかし、その模様が
完全に、ひとつというのがあり
それをこの世の「道理」というらしい

真理ともいうらしい

ひとにより、ときにより
かわること
あるいは、ひとにより、
理解しがたいこと
納得しがたいことは
真理ではありません

理解に説得がいることも
ひとそれぞれの模様にすぎません

……

つまり真理はごく単純なことです



「あなた」が
人でありましたら
ただ、ひととして
まっとうに生きるだけで
深く慈しまられます

見えない方々に、です……

貴方をきちんとつとめる貴方が
愛されます

貴方が、あなたを
懸命にいきるかぎり
神々は、あなたを見捨てません

それが、あなたが、あなたを
見捨てていないことだからです