花の星の創作BLOG

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力のあるものの修行、ブラックシャーマニズムの真髄



力を持つ意味

力を持つものは
責任が問われます

……

ほんらいのブラックシャーマニズム
攻撃性、悪魔性を
おとす、しずめるためにあり
己のそうした面と
向き合わなければ
開花しない霊性です

攻撃性、悪魔性を
つよめたり、暴走させたりするために
宿るわけではありません

(それは垢穢にすぎず
己の心場で、そうした心力と
向き合い、落とし方、鎮め方を
まなぶために現れるものです)

……

ちから、は
自覚と制御がとれて
はじめて美しいバランスを
たもちだします

暴走したり、
力にふりまわされるうちは
まだ、力を使えている、ことには
なりません

そうした方は
使って奉仕(仕事)をしてよいという
許可もされていません

車に振り回される方であれば
ほんらいは、
免許はあたえられませんよね

能力で社会と関わっても良い、という
許可を与えるのは
天界ですから、もっと厳しいです

無免の方や、
能力の制御、自覚がなく
振り回されている方に
お金をはらうことは
無意味なので
よく見抜いて、
回避されて下さいね……

……

ホワイトシャーマニズムと同じように
このシャーマニズムにも格があり

ホワイトシャーマニズム
わずかな具現をもつかたが
光や愛であることに酔いしれ
逆に、醜さ弱さを「ないこと」にしたり
様々な思い込みや行為により
落ちていくように

ブラックシャーマニズム
わずかな具現をもつかたは
たいてい、その攻撃性によいしれ
それを暴走させること(念や生霊、呪い)が
力だと誤解されることが多々あります、

しかし、
本来のブラックシャーマニズム
その己の攻撃性と向き合い
対処力を培うことにより
他者のそれをも
対処できるようになること
ほかなりません

本来のホワイトシャーマニズム
弁えと献身をもつ、
神々と生命のための生命力であるのを
自覚されているのと
おなじようなことです

「人の役に立てなければ
なんの意味もない」

力はそのようなものです

たとえ力に見えても
心とともに、磨いて、御せて
はじめて役に立てるもの
(どんなものもそうですね)

力に呑まれて、酔いしれて
依存しているのなら
役に立たない、意味がない

神々は「力をもつもの」に
厳しいので
そうした人たちは
容赦なく放任され
無意味なことを求めているよ、とは
教えてはくれなくなります……

(友達は教えてくれるかもしれません)

……

ブラックシャーマニズム
気に入らないものや
敵にぶつけるもの、
そのためのちから、
では、ないのです

その真髄は、
どこまでも親愛なるものに
むいていなければなりません

ホワイトとおなじことです

エネミー(害悪)に
思えるものに
こころは、向けていては
いけないのです

どこまでも
親愛なるものに向ける

護るための心の場、
あるいは心愛に
芯をたてられなければ

おちていく

ホワイトでも、ブラックでも
かわりなく、
そこに芯がないなら
迷宮のなかで、
道筋がたてられないのと同じ

……

ブラックシャーマニズム
いわば、
守護と破魔のちからです

ホワイトシャーマニズムの真力が、
真愛からあらわれる
神の治癒や、神の導きのながれ
そこに至らないとき、
能力者こそが
低俗なものの傀儡となるように

悪いエネルギーの破魔にいたらない
ましてや己の悪意すら
破魔できないものの
ブラックなシャーマニズム
低級霊のえじきです

……

ところで
最大のブラックシャーマンが
よくおこなわれる
ブラックシャーマニズム
ブラックユーモアだそうです

悪意の滑稽さを表にし
悪意やどすものに
その惨めさにきづかせ
なおかつ、
笑いにかえてしまうんですね

すざまじいことです

……

しかし、こうした能力にかぎらず
すべての能力もおなじことで
ちからは、どんなものでも
「誰かに真心をささげる」とか
そうしたことのために
開花するのだろう、と
私は思うのです、

心を表現したいから、というか

ここでいう「誰か」は
誰でもいいのです
自分だっていいのです

ただ
ちからは、「ちから」であり
それは己を飾るための
たんなる飾りではないんだと
思うんです

飾りとか、
二次的なものを求めていると
いつか、能力とは
別の道に迷い込んでしまう気がします


無意味なものを求めないように
生きていきたいですね……