花の星の創作BLOG

花の星の更新作品のお知らせブログです、絵、漫画、写真、フリーゲームなども公開していきます

【コラム】愛などない、と、価値観の束縛





愛などない

たまに、たたり神さまが

おりて、お話しされるのです

そのとき、わたしは

愛などない、と

云う心境にいたります

ただ

よくみると

愛はあるのです

ひとりひとり

きちんと、愛はあるのです

優しさ、おもいやり

そんなものではなくて

愛はあるのです

でも、無償の全愛に

達している方は

いらっしゃらないのです

……

たたり神さまは

癒されたくて

泣いてこられるのです

わたしはたまたま

うらむもの、祟るものに

共感をおぼえ

いやしかたと

休みかたをおぼえておりました

ですから

かれらを抱いて

ゆっくり癒しながら眠ることができるのです

……

かれらは

悪いものとして

おいやられ

悪いものとして

認められず

祟るがゆえに

こころ、ちから

すべて、否認され

「消すことすら、できないもの」に

(消すこと=己の祟りをしずめること)

ただ、憎悪敵視されてきたのです

己のこころさえ

みえていない、

こえていないものに

「ただ憎まれてきた」のです

ですから

祟っているのです

……

神様を愛する人

神さまにたよられます

そうした方は

たくさんいらっしゃるのです

しかし

「自分の価値観にあったものしか

愛せない」

この束縛は

だれも、はずせてないのです

……

「自分の思い」をつたえるとき

「だれかを否定」しているなら

それは全愛ではなく

「価値観にあったものへの愛」であります

でもそれは

優しいことであり

あたりまえのことであり

大切なものなのです

……

全愛に達せられた方は

敵がおりません

心にもおりませんし

世界にもおりません

エスさまもそうですし

お釈迦様もそうです

今この世に

エスさまのような方

お釈迦様のようなかたは

いらっしゃいません……

だれもが

価値観の束縛を

こえておりません

エネルギー界隈では

そのような方があらわれたら

みんな。みえるのです

みんな。わかるのです

「敵がいない方」だから

……

かれらは

己を傷つけたものを

愛したのです

こころから、みとめ

愛したのです

それは言葉の愛などではありません

「命」からふきでる

真実の愛です

ですから

かれらには

敵がおりませんでした

現実にも

見えない領域でも

おりませんでした

誰も、かれらの

敵ではなかったのです

……

祟るもの、うらむものも

かれらだけは

祟らない、うらまない

愛されるからです

……

ごまかすような「愛」ではありません

魂から吹き出る愛に

「愛されるから」

祟らないのです

……

私は

祟るものとシンクロをおこしているとき

愛をうそぶくものを

ひどく、憎悪し

のたうちまわります

愛していると

思い込んでいるものたちが

かれらを、殺そうとしてきたからです

……

「憎まれている

嫌われている

敵視されている」これは

価値観に束縛されている愛の

因果のあらわれです

逆にいえば

「憎み、嫌い

敵視している」のです

胸底に「他者への

否がやどっている」のです

否に、否がかえるのは

自然なことなのです

価値観には

対比の価値観があります

価値観を磨くために

対比の価値観と

面向かうのです……

それが成長を

すすませるのです

……

価値観の束縛が

やどる世界では

だれしもが

認められないものと

認められるものをかかえます

そうして、

それが、こころにあるかぎり

現実に点る(みえる)のです

……

こういうことが

「いけない」という

はなしではないのです

「そういうふうに

できている」だけなのです

……

私の話し

まだまだ

整頓できていないことばかりです

もしも属性をきかれましたら

私は光と混沌のほうになります

(光と秩序のかたは

異なりがあるので

ときおり、拒否感をおぼえるかと

おもわれます)

(逆に混沌のかたは

安心されるかもしれませんね……)