花の星の創作BLOG

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スピリチュアルな思考の捨て時



キリストを信じないのは、スピリチュアルや霊能者、および宗教者……

何かを信じている方は
なにかがもたらされたときに
「自分の信仰」により
真偽をとうので
何も信じてない(依存していない)ひとより
キリスト様を信じていません……

奇妙なはなしですが
何も信じてない(依存していない)ひとは
キリスト様がそこにあると
キリスト様と理解されるのです

エスキリストさまは
共有意識ではなくて
おひとりの、神様の子であり
また、はじまりであり
終わりである方です

かれは
3つの側面をもたれており
それが、父なる神様
子なる神様
そして、ひとなる神様の面です

かれの神霊体は
わりと散歩を好まれるので
たくさんのかたの
かたわらを
とおりすぎたり
みまもったりされています

無意識のはなしになりますが

なんにも依存していない
(見えないことにたいし
なにも、カタをもたない、
てぶらのもの)は
かれが、とおりすぎた時
かれだと、わかり
敬意をもたれるのです

無意識にふれる

神様もそうです

神様も、散歩がお好きな方は
よく歩かれているのですが

なにがしかの
頑迷な「とらえかた」や
信仰をもつかたは

かれらに敬意はもたれません
キリストにふれても
キリストとは理解しませんし
把握もしませんし
感じることもないようです

世界はふたつにわかれており
このさき
すこしずつ、はがれて
距離をもちだします……

「信仰」というのは
思考やとらえかたを
信じ切ること(思い込むこと)ではありません

こころの柔らかな部分が
かんじるとき
自然に、敬意が現れるさまを
神々は「信仰」ととらえられます

私もそう思います

……★・……

いままで
必要だった
かたくなな
とらえかたや、かんがえかた
やわらかい心の感じとることを
ふさぎこむ、思慮は
もう要らないように思えます

スピリチュアルとか
さまざまなセミナー
そこで得た「思考」は
じつのところ
神々は忌み嫌うことが多いです

たとえ、良さそうに見えても

それは、なぜか
まがい物ばかりです

そうした思考を
「いいたがるもの」
……つまり、自前の思考を
おおくのものに
しきたがるもの
啓蒙したがるもの
影響したがるもの、を
じつのところ、おおくの神々は
嫌悪しています

むずかしい、
ふくざつなリンクラインなのですが
それは、自然への不敬につながり
「そのひとが神様をする」ような
そんなことだからです……

……★
・……

思考の捨て時

余分なものは
必要だったから
そこにありました

もう手放して良い「かんがえかた」が
ここからさきは、出てきます

仕入れこんだ思考の
断捨離ですね……

思考も、思慮も、とらえかたも
こころ、きもち、かんじょう
かんじること、思うこと
すべて
自由でいいんですよ

スピリチュアルな思考
引き寄せるには……
エネルギー的に見て……
波動的に見て……

こころのなかに
かくされた
差別意識、選民意識
そんなものが
土台にある
思考や
とらえかた、多いんですよ

差別意識は特にきついですね

スピリチュアルにとらえないと
スピリチュアルで言われているように
とらえないと、と
必死になっているなら
すててください

その時点で、不自然で
また、いびつで
頑迷です……

そんなふうに
とらえなくて
大丈夫なんですよ

(もっと幸せになります)