花の星の創作BLOG

花の星の更新作品のお知らせブログです、絵、漫画、写真、フリーゲームなども公開していきます

愛の開花




コンテンツ…愛の開花

この年になると
おかしなもので
ひとが、「他人」にたいし
どんな想いを抱いているか、が
どことなく
わかるようになって

根源に愛がまったくないひと、と
あるけれど、開花していない人
花が咲くように、開いたひと、は
まるで違う様をもち

開花は
たぶん、急におとずれたり
するのかな、と
思う

時、よりも
経験なのかな、とも思う

……

私は愛を大切なものと
とらえているけれど
特別ですごいもの、とか
綺麗でうつくしいもの、
とかいうより
他人への思いやりや、
命への敬愛のような
ささやかで、日常的なものだと
感じている

……

愛のない人、は
どんな言葉を重ねていても
私には何か
灰色で、くすんで思える

どんな経験をしていても
どんな仮面を
貼り付けていても
ないひとは
やどっていない

……

種の状態のひとは
かたくなで
ひととおなじことを
懸命にしていたり
迷っていたりして
なんだかいじましい

……

ひらいたひとは
なんとなく
与えているものが
あるからか
話にしていなくても
どことなく、わかる

……

種のひとは
よく迷っていて
不安なようで
幸せがなんなのか
わからないと
いうし
人に聞いたりもしているけれど

これから咲く花の正体や、すがたを
他人が教えることはできない

はがゆい時間の重なり

それでも、
すべての経験が
培われて
やがて、その人に
辿り着けるんだと思う

……

種の間は
どんなことも
想像でしか
把握できないのかも
しれない

花が咲いたとき
顔にあたる風や
光のあたたかさ
他人や、世界のすがたは

種のときの
結局は、自分の想像にすぎなかった
他人や、世界のこととは
まるで違うんだろう

神と堕天使の関係



隠り世の現実は
隠されていて
また、神様を含む
おひとりおひとりの
いのちや、意志が
生きて動いているために
固定されてはいない

そこには物質はなくて
流ればかりがある
そこにひとりひとりの命があって
かかわりがある
これを縁といい
この世になにがしかをもたらす
この世は縁というのは

隠り世にあるのが
命と命の、縁ばかりで
それにより
流れがかわるだけだから、だ

……

神様は、ひとり
おおいなるもの、と
私は呼んでいるが
すべてをもち、
すべてに現れる方と

こまごまと、
そこから流れ別れ
かけらとなり
プリズムとなり
人の傍らに
命と歩む、光のかけらの
神様と

神様のおしごとをされる
天使と
呼ばれる方々と

また、堕ちた方々

……

澄み切った水に
写り渡る山の景色は
山に似ていて
山に似ていない

まず、逆さまで
ゆらぎをもち
遠近がなく
よくみると
色が濃い

堕ちた神、は
堕天使、は
このような様をもつ

この世が水だとしたら
そこにうつしだされた
神のすがた、
上下あべこべとなった
そのすがたになる

……

隠り世の現実など
とうてい、文字で
あらわせるものではないし
絵でも、なんでも
あらわせるものではない

唯一、たんなる「音」が
もしかしたら
あらわせるかもしれないと
思う

言葉をもたない音が
かれらのすがたを
なぞれるかもしれない

……

隠り世の現実は
縁とその流れだ
どの流れにあるかで
この世にあらわれるものが
異なる

堕天使は
人間の持つ
神へのうらみ、憎しみ
ほんとうは
神を愛しながら
怒りに駆られる
上下あべこべとなった
己のこころと
リンクする

……

幸いあれかし

隠り世の現実は
流れをもつ
縁の海

だからこそ

愛にないものは
流れ落ちていく

だからこそ

愛にあるものは
光りがともり、
縁がもたらされる

それだけのことだ

闇が消えていく日



じつは
だいぶ前からなんだけど

観念で、そうしたことを
ないことにしたとしても
エネルギーの、ながれから

ひとりのひとの
まわりから
「悪人」、あるいは
「敵意をもつひと」が
きえることはなくて

つまり
そのひとを基準に
善人、ふつうのひと、悪人
好く人、ふつうのひと、
どうでもいいひと、嫌う人
の。バランスが
変わることは
なくて

精神性や、心理や
現実の行為の
問題ではなくて

エネルギーのバランスとして
消えることがなくて

気にしないことはできても

そうしたことが
まわりから
消えることはないんだよ

……

これは現実の出来事にもいえて
嬉しいこと←ふつうのこと→嫌なこと
は、どんなときでも
つねに生じる

の、このバランスは
崩れることは
いきているかぎり
ないんだと思う

……

それは、自分の内心にもいえて
良性←ふつう→悪性
の、バランスが
かわることもないんだ

観念をつくりあげ
良性のみを
自分だと
みているときは
あるけれどね

……

闇が消えていく日が
この先おとずれるらしい

私はそれは
この
善←普通→悪の
バランスが
変わる日なのかと思っている

……

日々、闇が消えることはあって
自分を…闇におけば
まわりからは
闇が、消えるんだけど

それは普通、人はしないし
しなくていいんだと思う

……

「良い子でいてほしい」というのは
実は、闇なんだと思う……

ひとにも、自分にも
自分の、日々や人生、運命
他人にも、神様にも

「私は、善人」というのも

……

人生や運命
他人や神様
なんでも

「あなたは良い子だから」って
そんなこと
しないはずでしょ、とか
そんな態度は
もたないはずでしょ、とか
そういう心と、同じように
手前勝手な欲を
現実の上に被らせるのは
やめてほしいなぁと
私は、思っていた

私は、なんだけどね

「良い子」「良いもののはずだ」は
きっついなぁと思う

人生にたいしても
おとずれたことにたいしても
見えないものにもたいしても

「そうじゃなかったら」
削り取ってないか

……

善だけをおうこと
そういう方が
じつは、
ひとのことも
世界のことも
無視していると思う

自前の思い込みしか見ていない

そこにある悪性を、
きちんと見て
怒ったほうが
わかってくれたり
良い子だから、なんて
いわれないで
ばかやろうって
嘆かれたほうが
しっくりきたり、するもんだけどな

……

運命も、神様も、人生も

……

うまくいかない。だけだから。
嫌われたり、悪人がいたりするから。
好かれたりもするし
善人もいるから。
うまくいったり。うまくいかなかったり
するだけだから。

「良い子ではない」

あたまのなかにある
理想のような良い子、
良いものは
見えないものにもいないし

じつは、現実にもないし

じつは、人生や、運命にも
出来事にも、日々にも
日々あたえられる細かい事
すべてにおいて
いない

……

人を…、世界を愛するって
美化することや
美しさ、善性の思い込みを
押しつけ
抑圧することじゃ、ないと思う

善悪のバランスは
エネルギーの現実から
変わることが無い
自前からわくものも、
ひとからわくものも

そうしたことを
うけいれられずに

ただ、観念から
ひとや、世界を見続けるなら
どんな良いことをのたまっていても
していても
それはそうした観念や、
自分の思い込みを
愛しているんだと思う

……

ものや、ひと
向き合うって
観念と向き合うことじゃないと思う

どちらかというと
現実をまえに、自前の観念を
おいておくことなんじゃないか

現実をみて、確認したり
話してみて、把握したり

こころが
ネガティブでも
そうして、
現実と向き合うなぁ、って人は、
きちんと
目の前のことを、愛してくる
(その人が、それを
愛と思っていなくても)